東日本大震災記録集
東北公済病院はその時どうしたか?どうすべきだったか?

阪神・淡路大震災の経験から、1995年に地震対策特別措置法が制定された。その流れの元に文部科学省に現在は属する地質調査研究推進本部が作られた。その発表によれば、宮城県沖地震が発生する確率は2010年から10年以内には70%、30年以内には99%とされていた。それがその予測時期の2年目の2011年3月11日に発生し、それも宮城県沖地震のみならず他の震源域と連動して1000年に一度とされる東日本大震災が発生することなど誰も予想するものではなかった。死者行方不明者が2万人を超す大惨事である。地震、津波、そして原発事故による放射能汚染、どれをとっても忘れようと思っても忘れられないものになってしまった。慎んで犠牲になられた方々の無念を思い、哀悼を表したい。特に、職員の方々の愛する家族を失った悲しみを思うとき、慰めのことばのむなしさだけが響く。東北公済病院もこのような大地震には無警戒であったといって過言ではない。しかし、突然の災害に我々は逃げることなく患者さんのため、地域のため、病院のため、そして家族のために必死であった。現場での職員個々の行動は賞賛に値すると思う。その日私は東京の厚生労働省における会議に出席中であった。携帯メールで家族の安全を確認したのが、14時50分、その後、病院へ電話したが一切繋がらない。メールも繋がらなくなり、病院がどうなっているのか全く情報が入らない中、東京ではテレビで津波が町をのみ込む映像が何度となく流され、私の不安は増す一方であった。いわゆる帰宅難民となったが、幸いにも日曜日の夜にどうにか病院に帰ることができた。


東北の夏祭りも終わり、秋の気配が感じられる今日この頃であるが、ここまでの苦労、この後の苦労、様々である。分院の中央病棟は未だ使用不能であるが、そのほかの病院機能は回復してきた。ここに至るには病院職員の努力はもちろんであるが、連合会本部からの支援、また連合会病院からの支援、行政や地域からの支援などなど、沢山の方々に義援金をはじめとした物心両面で支えられての復興である。このような多くの方々からの支援に感謝する意味でも我々はこの未曾有の災害にどの様に向き合ったかの記録を残す義務があると感じ、この記録集をまとめることとした。


世代が変わりこの災害は語り継がれるくらいの時が経っても、同様な災害は必ず起こるのがわが国の宿命であり、その時の対応を肝に銘じて次世代へ語り継ぐことも国民としての宿命である。東北の病院として経験したこの記録を一読し、今後の備えの一助としていただければ望外の喜びである。


平成23年9月記
東北公済病院長
岡村 州博

東日本大震災記録集

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管理部門
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診療部門
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看護部門
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事務部門
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宮城県の医療施設の状況
医療救護班活動状況
本院・宮城野分院の主要周辺病院の震災後の概況
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防災対策部会
宮城野分院復興準備委員会
東北公済病院あり方検討委員会
(1,257KB)


編集後記
(489KB)